
⼤坂は「天下の台所」として全国の物資が集まる都市でした。なかでも、四ツ橋は⼤坂の交通・経済の結節点として、橋と橋、町と町、⼈と⼈をつなぐ「調和の象徴」ともいえる場所でした。そして、様々な物資の中でも、⽊材は建築・船舶・修理などに⽋かせず、⼤坂城や寺社、商家町家の建築需要が⾮常に多くあったことから、四ツ橋近隣は⽊材の街となりました。

その昔、長堀川と西長堀川の交差するところに、
真四角に架けられた橋がありました。
ひとつは上繋橋(かみつなぎばし)。
それから下繋橋(しもつなぎばし)。
さらに炭屋橋。
四つ目の橋が吉野屋橋。
これが四ツ橋の地名の由来です。
橋の名前にも使われている「繋」の文字には、
それぞれをむすぶという意味があります。
物流の要は河川であり、船で運び込まれた⽊材を扱うため、運河(堀川)沿いが⾃然と⽊材集積地になりました。
⼤阪には堂島橋・天満橋・⼼斎橋・難波橋などの名橋がありますが、都市空間において⼈々の往来の中⼼に位置する四ツ橋は、「橋の都・⼤坂」を機能させる“ハブ”として重要な役割を担っていました。
江⼾時代より、このあたりは⼤阪の中⼼部で、⼗字の川⾯を⾏き交う船や、橋上往来も激しく納涼や観⽉にも適していたので、四つ橋にまつわる逸話も残されています。

⼤坂の橋を相撲取りに⾒⽴てたこの作品では、四ツ橋が 「⾏司」として紹介されています。

⽇本全国の主要な⼤橋について紹介しているこの作品で は、四ツ橋が「世話⼈」となっています。
関西漫遊の水戸黄門が、橋の上で涼みながら川岸の家々を眺め、明け放しの不用心を語っていたところ、傍で涼んでいた東町奉行の手先に泥棒と間違えられ拘留されて大騒動になったとか。

明治以降も、四ツ橋⼀帯は「⼤阪⽊材商業の中⼼地」として繁栄しました。⽊材の流通は依然として河川での運搬が中⼼でしたが、明治後期になると鉄道輸送が加わりました。
明治41年に市街電⾞が敷設された時、⾒物⼈で四つ橋付近が⿊⼭の⼈だかりとなりダイヤモンドクロスとも呼ばれていたとか。
新しい時代の幕開けにも、四ツ橋は深く関係していました。
1926頃(昭和初期)の四ツ橋


上繋橋は船場と新町をつなぐ南側の橋のことを指します。⻄横堀川と⻑堀川の合流点で、船の繋留所であったことから名づけられたと⾔われています。船だまりになっており、難波名所の⼀つに数えられていました。写真は南の下繋橋から北にむかって撮影したもの。橋の上を⻑堀通を⾛る市電が⾏き来し、⻄詰に電気科学館が⾒えています。

⻄⻑堀川にかかる吉野屋橋を炭屋橋から⻄を向いて撮影した写真。北詰には、交通局の変電所も⾒えています。⻑堀川の北岸・南岸、ともに南北に⾛る筋を吉野屋町といいました。吉野屋橋も上繋橋と同じデザインの美しさであり、四つの橋はデザイン⾯でも統⼀されていました。⻑い歴史を終え惜しまれて昭和48年6⽉に埋⽴てられました。

昭和12年年3⽉13⽇に開館した⽇本で初めての科学館「電気科学館」は四ツ橋のシンボルとなりました。

明治41年には市外電⾞が敷設され、路線の⼀部が、四ツ橋筋を通りました。

昭和20年頃に撮影された四ツ橋製材所(現︓株式会社四ツ橋)
現在は四ツ橋セントラルビルとなっています。

昭和60年頃の四ツ橋の様⼦。横堀川・⻑堀川は埋められ、⾼速道路が縦横を⾛る街並みへと変貌しました。
